【天才】中村一義の過去・おすすめ6トラック【考察】

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天才・中村一義が打ち立てた邦楽ロックの金字塔

今回は「10年に1人の天才」「4500円」でおなじみの中村一義さんです。

イチローが音楽に興味を持つきっかけになった人物の1人ですね。

“中村一義が音楽の入り口になった”ってミドサー、けっこういると思うんだよなぁ。

なんていうか、天才っていうか神童っていうか。もはや振動?

中村一義(てんさい)みたいな?西野カナ(しんどう)みたいな?そんな感じ。

そんなミドサーを会いたくて震えさせた天才。今日は中村一義の話。

中村 一義(なかむら かずよし、1975年2月18日 – )は、日本のミュージシャン。東京都江戸川区出身。血液型はA型。

Wikipediaより

中村一義を考察・その過去について

デビューが1997年の中村一義さん。

当時は21歳で1stフルアルバム「金字塔」をたった1人で作り上げました。

このアルバムは商業的な成功というより、音楽関係者や感度の高いリスナーから絶大な支持を獲得します。

21歳の青年がセルフプロデュースで、しかもデモ作りから演奏まで行ったクオリティの高いフルアルバムは「天才」の名を世に知らしめた。

前情報が全くなかった分、FF5的で言えばガラフが死んだ時くらいの衝撃を、このアルバムよりイチロー少年は受けたのだった。

価値観的なものは祖父から受け継いだかもしれません。

祖父の家には本の部屋があり、ニーチェなどを「読んでおけ」と言われていました。

中村一義

作詞、作曲はもちろん、ギター、ドラム、ベース、鍵盤、ボーカル全てのトラックの演奏をこなすというマルチぶりと、デビューした1997年から1999年の名古屋ボトムラインまで一切ライブをしないという異彩っぷりが当時の音楽ファンたちを釘付けにした中村一義。

この1stフルアルバム「金字塔」は21年間生きてきた自分の集大成として制作されたものと本人は語る。

リリース後の活動予定なども全くの白紙状態だったんですね。霊丸で言うところの4発目にあたる作品だったわけですね。わからないなからいいです。ここはそういうコーナーです。

ちなみに、90年代当時の中村一義のスタジオワークぶりは「宅録」の走りとして業界では受け止められている。

一応僕にとっての「金字塔」が作れたかな、と。

正直、1枚で終えようと思っていたんです。

1枚出したら、セックス・ピストルズのようにやめてやるつもりでした。

中村一義

音楽業界で華々しくデビューしたように見えた中村一義だったが音楽に傾倒するようになった経緯は、恵まれない家庭環境にあった。

江戸川区小岩に生まれますが、両親のトラブルに巻き込まれて幼少期の一義少年は虐待を受けながら育ちます。

その後、祖父母の家に預けられ祖父の影響を受けながら成長します。

その祖父母の理解もあって、高校卒業と同時に大学の進学資金を使って祖父母の自宅に「状況が割いた部屋」と呼ぶスタジオを作り、宅録に必要な機材を一式揃えることになります。

この「状況が割いた部屋」で祖父から受けた教育と中村一義自身の哲学を音楽に昇華させる作業が始まります。

引きこもりが作る価値観の塊たちは、一般の音楽ファンから見ると少々歪んで見えたかもしれない。

祖父とはよく話もしました。

国家や宗教、戦争の話、今の社会情勢がどういう流れでこうなったのか。

教員免許を持っているようなじいちゃんだったんで、

話がうまく、吸い込まれるように聞いていました。

中村一義

大学への入学資金を音楽につぎ込んだワケですから、本人は2年という縛りを自分に課すことにしました。

具体的には「音楽で2年以内にデビューできなければ死ぬ」という条件を自分に課した中村氏。

最初の一年半はどこにデモテープを送っても、鳴かず飛ばず。

「あと半年しかない」状況から英語で書いていた歌詞を日本語に変えて作曲をし始めます。

日本詞で初めて作曲したのが「犬と猫」。こりゃおったまげー!です。イチローこの曲大好きです。

ってな感じで日本語で歌詞を書くことで突破口を見出した中村一義さんは「犬と猫」をきっかけにあらゆる名曲を作曲。

その後すぐにデビューが決まります。ヨドバシエクストリーム便かな。

やはり「2年」という縛りが本人をだいぶ焦燥させていたそうで「死なずに済んだ」「昔には戻りたくない」と過去を振り返ります。

言葉選びや言葉の使い方については、マンガです。

マンガのセリフって口語体で書かれてますよね。

話し言葉の中には文字になっていない意味がある。

それがおもしろくて。

中村一義

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