新型コロナ・意見を分けた大きな2つの論争について考察
こんばんわ。イチローです。今日は時事問題の日にします。
ちょっと前にSNSで医療従事者と話す機会があったというのもあって。
今日はこの1年間日本中の人が考えていた新型のウイルス問題に関する自分なりの決算をしてみようと思う。
この記事で考える世論問題は大きく分けて2つ。
- 「経済」か「人命」かの間で揺れる世論
- 「新型コロナは風邪やインフルエンザと同等の扱いでいいのでは?」という世論
前者は緊急事態宣言が出るたびに毎回メディアなどでこぞって取り上げられ、
後者は医療崩壊が現実に近づいてきた2020年末に再び再燃した問題です。
2021年になって世界の感染状況などから見えてきた部分もあるので、あくまでも個人の見解としてこの問題に向き合ってみたい。
最初に一応言っておくけれど、いまの日本では「感染しないこと」を最優先にした考え方が常識になっていると思うけど、
個人的にはちょっと違う意見を持っていることは過去の記事で書いてきた。
読んでもらえれば分かると思うけれど、自分の仕事とかはあんまり関係なくて、リスクが多少上がったとて、楽しさ・未来を優先していくことを頭ごなしに否定したくないって考えている。
それでも医療の現場にいる人の声を聞いて改めて考え直すところもあった。自分に今できることを考えるキッカケにもなったし、文章に残してみる。
今日はそんな話。
お金と命を天秤にかける感覚・経済と自然現象・選手村の活用は?
イチロー「お金の不足」は本当に「未知のウイルス」よりも恐ろしいことなのだろうか?
この問題を考える時に人間の人工物である「経済事情」と人間には手に負えない「自然現象」とを天秤にかけていること自体に違和感を感じる。
まず最初は「経済」か「人命」かの問題について。
2021年1月現在。まだ日本国内では新型コロナに対する決定的に有効な治療方法は確立されていない。
ここでは便宜的に新型コロナを「未知のウイルス」であり「死に至る可能性を持った疫病」として話を進めてみる。
例えば人が山で遭難した時、生存率を上げるためにどのような方法が取れるだろう?
おそらくその状況では役に立たない重量のある荷物から捨ててしまうのが得策と思う。
コロナ禍において人命より経済を優先するということは、遭難した状況でバックパックに金の延べ棒を詰め込んでいるようなものかもしれない。
「お金がなくて死んでしまう」というのはあくまでの社会の取り決めによるもので、つまりは社会構造の工夫次第で乗り越えられる問題だと考える。誰かに文句の言いようもありそうなものだ。
(行政からの手厚い補償や文化的なライフラインの構築)
対して「未知のウイルスによって死んでしまう」というのは山で遭難して絶命するのと一緒で、人間社会の枠組みを超えた現実問題として扱われる。
自然現象で死んでしまうことは地球で生きている生物の宿命のようなものなので誰に何の文句も言いようがない。
人々がこの問題を同列に扱い天秤にかけるような議論を行えば行うほど「経済不調とウイルス感染は同列で等しく怖い」という刷り込みがされてしまうと考える。
そのことに起因して僕らの感じている恐怖は「数値化」できて「合理的」に処理できるものだと誤解してしまっている人が多い気がする。
(経済回さないとだからちょっと遊びに行ってくるわ〜)
ウイルスは俺たちの言い分など聞いてはくれない。


この問題に関しては、今ならまだ金銭のみによって救われる命も多いように個人的には思う。
ただ、国内の資産総額が変わらないのだとしても、不況・不安によってお金は偏り続けて、補償や給付にもいずれ限界が来るのはわかる。
(給付額を減額しようが、政府が生まれ変わろうが、永久に続けられるものではない)
だからこそ同時に最低限の生活手段の確保・社会生活のウィークポイントの補てんを同時に進めなきゃならない。
知識が付いたところで行動が変わらなかったら意味がない。
過去の自然災害の被害者たちは今の日本をどう見るのだろう。
「いやいや、あなたコロナウイルスの致死率って全体で慣らしたら2%くらいよ?そんな大袈裟に騒いでどうすんの?」
みたいな反論も多く見られた2020年。
そっちの話についてもすこし考えてみることにする。


「コロナは風邪・インフルエンザと同じ」という説について



致死率2%という数字は高いのか低いのか。
インフルエンザのそれと比べても2%という数字は決して低い数字ではないように思う。
なによりその「2%」という数字は「高度な現代医療でコロナに対応出来る」という前提に成り立つ数字でもある。
メディアも世論も新型コロナは感染時の致死率の方に話題が行きがちだけれど、
このウイルスの重要なポイントは、インフルエンザや他の感染症が激減するような対策が日本全国で行われているのにも関わらず、
感染者・重症者が増加し続けるという驚異的な「感染力」の方にあると思う。
その点を考えてみると普段当たり前に甘受している、医療インフラという要素を無視することが出来ない。


つまりは今回の新型ウイルスに関する1番の誤算はここに集約できると思う。
あくまでも「高い致死率」というのは驚異のウイルスである条件のただの1つであったに過ぎない。
ウイルスの持つ凶暴性は「致死率」だけで測れるものではなかった。
単純な数字に踊らされて「コロナを低く見積もった」ところを人類は突かれてしまった形だ。
これは2020年の8月時点でのデータ。
医療体制を守っていたドイツの新型コロナの致死率が4%前後で推移しているのに対して、同じヨーロッパでも医療崩壊が起こってしまったイタリアの致死率は15%に近い。
この点を踏まえて「コロナはただの風邪」という人がいるのなら俺にはもう言葉がない。


新型コロナの誤算・考察・まとめ
今日は2020年のまとめとして「新型コロナの誤算」について考えてきました。
今回の話の要点だけ書いてみると。
- 「経済」と「人命」は同じレイヤーで語るべき代物ではない
- 「コロナは風邪発言」は医療従事者・医療インフラへの負担を無視し踏みにじる
と、まとめることができる。
これからの日本の動向としては、与党は「憲法が足枷になった」って主張して憲法を変えたがるだろうし、
野党は「総理大臣が無能だった」って主張して政権交代を目指すだろう。
その実どの政党の支持率もまるで上がっていないところを見ても、今の日本の迷走具合はなかなかに深刻だ。
与党・野党が主張する2択の場合、どちらを選んでも政府の権力は強くなっていく傾向にある。
(1-憲法が現行の政治家によって改革される 2-優秀なリーダーに権限を持たせる)
これはつまり、どちらも独裁状態に近付くということでもある。
優秀なリーダーによる独裁・大きな権限を持ったトップが国民を思い通りに動かせるなら、病気の流行などすぐに止められるだろう。
いますぐ求められているのはそういうものなのかもしれない。


独裁政権は、国民がバカなほうが成立しやすい。
ひとりひとりが独創的な考えや高い行動力を持っていたら、管理者側からしたら思い通りにならないしめんどうだ。
いつの時代も大衆に知識や理論が禁じられる理由は、それが「武器」になるからだ。
教育はカーストの頂点のみに集中して、大勢のひとには安全な首輪付きの生活が与えられる。
それでうまく回っていくだろう。でも長期的に考えるとどうだろう。
たぶん、恐ろしいウイルスが流行するたびに世界がちょっとずつそういう方向に向かう。
新型コロナをきっかけにして、独裁国家が増え始めるかもしれない。
みんなで一斉に声を上げる意味はあるだろうけど、それだけで良くなるとはどうしても思えない。
知識が付いたところで行動が変わらなければ意味がないのは、世界中の一人一人が一緒なのだろう。
怪物と戦う者は、その際自分が怪物にならぬように気をつけるがいい
ニーチェ(ドイツ/哲学者)


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[…] この条件はリスクを負って登園させた子供を”他の家庭の人間に預けることができない“という縛りを生む。 […]
[…] この条件はリスクを負って登園させた子どもを”他の家庭の人間に預けづらくなる“という縛りを生む。 […]
[…] そしてこの新型ウイルスは”人との接触を避けなければならない”という問題を持っていた。この条件はリスクを負って登園させた子どもを”他の家庭の人間に預けづらくなる&# […]
[…] いう問題を持っていた。この条件はリスクを負って登園させた子どもを”他の家庭の人間に預けづらくなる“という縛りを生む。子どもの急な発熱・保育園の送り迎え・あらゆる病 […]
[…] いう問題を持っていた。この条件はリスクを負って登園させた子どもを”他の家庭の人間に預けづらくなる“という縛りを生む。子どもの急な発熱・保育園の送り迎え・あらゆる病 […]