ブログの更新とストレスの解消は共存するか
本業が忙しい。イチローのフラストレーションはそろそろ限界だ。社会情勢と言う名のダウンフォースが容赦なく俺に働きかける。レーシングカーに生まれてくればよかった。
本サイトの更新も1ヶ月以上滞っているので、今日はスカムを吐き出しつつブログを書いていこうと思う。要するにただのストレス解消である。
ここ数年。イチローは考えていた。たぶんこの世界は支配されている。
あらゆる偽善に。巧妙な欺瞞に。優しさという真綿でみんな首を絞められている。
太宰治は”人間失格”の中で「世間が許さない」という言い回しを「世間じゃなく、あなたが許さないのでしょう?」と糾弾してみせた。
世の中にはこれと似たような状況が数多く存在する。神も仏もあったものではない。エンタの神様もトイレの神様もとっくのとうに御隠れになられた。俺はこれほどに救いを乞うているというのに。
太宰の言うように社会は自分が気にくわないことに対して「それは社会的に問題がある」とし、自分の立場を曖昧にしたまま批判的な言葉を繰り返す人で溢れている。
これらのシステムから抜け出し、何にも関わらず自然の中で暮らしていけたらどれだけラクだろうか。

思い返せば学生時代。音楽に開眼済みだったイチローは、このような社会の状態の中では「誰かが決めた名盤など意味がない」という中二病的な思想を突き詰めていくことになる。
単純にツタヤとか新星堂においてあるCDはもう全部ダメなのではなかろうか?と。社会やら資本主義の息のかかったカルチャーには意味がないのでは?と。そう感じ始めた。
このように音楽をはじめとしたあらゆるカルチャーにも、差別や偏見は存在する。発信する側にも。受け取る側にも。
この思想はその後「どんなものでも自分自身が判断すればよろしい」という価値観に保留される。
集団心理・いじめについて
先述した学生時代のイチローのように、若者の中二病的感覚っていうのは移動距離の少なさが影響しているように感じる。
家と学校の往復のみで自分の居場所が限定的な学生はすごく多い。このような状況で偏見を一切持たない人間にいったいどのくらいの人がなれるだろうか。
こんな状況では良くも悪くも偏った影響を受けて育つのは間違いない。自分の思考の幅は自分の居場所の数とほとんど比例すると思う。自身の内面世界を外部の刺激なしに広げていける人は稀だ。カムパネルラかお前は。
人間は様々な人や場所の影響を受け、自分自身を構築する生物だと考える。それ以外の確かなことはよく知らない。イチローはあらゆる意味でまだ途中だ。

学校生活なんかはすごく顕著で、その場所から離れることで自分の居た場所の異常性に気付かされるなんて経験は多くの者にあるだろう。
このような閉鎖的な空間で問題になるのが差別やイジメだ。
意味のない括りで集められた集団は常に「敵対する何者か」を求める。何かを糾弾することでしか集団を保つことができないから生贄が必要になる。
学校でのクラス内でのイジメっていうのはこういった集団心理でほとんどの説明がつけられる。仲間はずれのきっかけなんてさほど重要ではない。
一貫していない・同一性のない集団は、そのような「悪・敵」という虚像がいなければ安定して存続することすらできない。
社会においての集団的なイジメも同じロジックで説明でき、その場合にも同じような集団を確認することができる。脆弱なプログラムが経年に耐えきれず、バグり散らかしてしまうのにちょっと似ている。
倫理がないのじゃ…信念がないのじゃ…哲学がないのじゃ…
俺の脳内を空想上のじっちゃが横切っていく。

たぶん。おそらく。いじめみたいなもんは無くなることがない。
表面的にはうまく隠されているとしても、姿形を変えて、虚無の集団に絡みつき離れることがない。
まだらになった虚無の集団は現代アートさながら。現代アートに謝れ。
ニワトリ小屋のニワトリみたいだ。誰かがいじめられているうちは、そのほかのニワトリは安全なのだ。
つまり傍観者はニワトリさながら。ニワトリに謝れ。
大人になってからなら簡単にわかることだが、学校はとてつもなくせまい世界であり通過点でしかない。
そんなあたりまえのことも、いじめられている当事者には届きようもない。そこが世界のほとんど全てだからだ。
画一的で効率的な教育ってのは彼らの犠牲の上に成り立っていると言える。
「みんな一緒に」とか「一丸となって」とか「オラに元気を分けてくれ」みたいなセリフで苦しむ子どもは一定数だが確実に存在している。
大人たちは見ないフリをしているだけだ。
”ぴあ”を見て自分のルミネの出番を知る若手芸人さながら。ルミネに出てる芸人さんに謝れ。
こんなふうに教師やら大人やら社会やら選挙やらに期待しなくなった世代が、コンシューマーアクティビズムに向かうのはあまりにも自然な流れだと感じる。
自ら発信を行う者が増えたのはこの辺にも理由があるのかもしれない。
社会が自己責任論を押し付けてくるのであれば、自分で勝手に助かるより道はない。
多様性・差別について
大人になって自分の感じていたストレスを言語化できるようになって、その場所を後にしてからもその影響は続いていく。
この国の持つしがらみや、持って生まれた人間的なつながりを完全に無視することは不可能に近い。
干渉的で公平でない法律や人間、先述したような義務教育からの影響の倫理観などが重くのしかかってくる。自分を完全に逃してやれる人間はどれほどいるだろうか。
これを読んでいるあなた。今日のところはイチローに免じて、自分のことを好きであってくれ。たぶんあなたは全然悪くない。
本当の知恵を持った先人たち・あるいはカルチャーなどに救われることができた人たちは、運が良かっただけのようにも思える。
身体的な特徴。セクシュアリティ。個人の属性。肌の色。出身。そんなもので格差ができてしまったり、暗に攻撃が正当化されるような場所には居たくない。
自らの言動を他人に支配されている人間とは距離を置いて生きていかねばならない。逃げ出せ。自分まで性格が悪くなっちまう。
イチローはあらゆることをすぐに忘れてしまうので、大切なことはサーバーに保存しておく習性を持つようになった。
これは進化だろうか。それとも退化だろうか。

不自由とは幸せだろうか。
自分の言動を他人に委ねるってのは、本当に簡単で楽な上に自己責任を回避できるという大きなメリットがある。
難しい状況を棚上げしたい時に、他者的な価値観ってのは利用されがちだ。「外化」ってやつかもしれない。ホモ・サピエンスの器用さにはまことに感服する。
このあたりの話は、離婚したい夫婦が子どもを理由に離婚しないでいるのとシステム的には変わらないような気がしている。
離婚するか否かの時に、本当に子どものことを考えている夫婦はそれほどいないと思う。子どもの立場に立てていないと言うかなんというか。
「子どものために」という大義名分だけが一人歩きし「離婚を阻む子ども」という概念だけが残っている夫婦がいるとする。
「だれかのために」が個人の都合で「だれかのせいで」に変換され、利用されてしまうのは冒頭に述べた太宰の話に繋がっていく。最悪、家族がお互いを恨み合う。死後、強まるタイプの念能力なのかもしれない。
こんなふうに自己犠牲ってのは聞こえはいいが、結局は自分で責任を負いたくない人間の思考停止の結果であると言える。

自由とは不幸だろうか。
「常識・当たり前」をそのまま鵜呑みにして生きていくってことは、自分の行動の権限を知らない誰かに委ねていることになる。
鵜呑みにした「常識・当たり前」を否定されるたびに、ただただ感情的に怒る人っていうのは「常識・当たり前」の本質を理解していないことを自分自身で証明しているようなものだ。
磁場が乱れがちの現代社会ではこのようなジジイに割と高確率でエンカウントすることになる。
感情さえも知らない誰かの代行をしているのであれば、もはやそのジジイはロボットだ。ムダに半導体が不足する。がんこジジイは半導体に謝れ。
ロボットといえばこういったタイプの人たちは、テクノロジーの進化とか可能性の拡がりすらも拒む傾向がある。
選択肢が拡がるっていうことは、そのぶん自分の自由意志と向き合う瞬間が増えるからだ。
自由意志を持つということはつまりは単純にそのことに責任を負わなければいけなくなるというデメリットを生むことになる。
勝手に自分の行動が決定されるというのは、責任を負いたくない人種にとってはメリットになり得るのだ。
結局のところすでに「可能性を拡げるか否か」の段階で意見が分かれていることになる。
わたしはリスクを恐れてアクションをやめたり減速するようなことはしたくないのだ。
イチローは若すぎるだろうか。確かなことは少ない。
集団心理についてのただの日記・まとめ
わたしは何を求めているのだろうか。
調和か。分離か。関心か。無関心か。共存か。独立か。
誰もが直線的に生きるということは効率的でコスパがいいのだろう。しかしあまりにも早いし便利すぎる。いろいろなものを見落としてきてしまった。
多くの人が求めている答えは、答えだけとは限らない。そんな気がしてならない。
駅から駅。空港から空港に運ばれるだけの移動は、果たして自由だろうか。
景色や匂いを置き去りにして、急いで手にしなくてはならない情報とはいったいなんだろうか。
旅や旅行でさえも求めていた答え「のみしか」得られないという点では、結局はネット検索の延長ではないかとすら思えてくる。
わたしはおそらく、死角から後頭部を殴られて、自分の価値観がベッコリとへこむような体験を求めている。
そのためには一見ムダと思えることを続けなくてはならない。
だれも通らない路地裏に。世界の隙間に。立ち入り禁止のその先に。目を凝らし。足を運ばなくてはならない。
顔をしかめ。生温かい。吐き気のする塊に手を突っ込み。あるいは舌で舐め。喉越しを感じなくてはならない。
わたしはまだ。途中の者である。



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